Tuesday, May 31, 2011

ことの葉


言葉には魂がある、とむかしから伝えられていますが、実にそう思うのです。

そちらの言葉を聞いて、理解して、消化して、こちらからも思想や気持ちを伝える。それが、個人と個人のコミュニケーションであり、お互いを理解するための方法の一つ。

でも、言葉の力はコミュニケーションや表現力だけではないとおもう。言葉で人は笑い、言葉で励まされ、言葉で癒され幸せを感じ、言葉で空気がかわり、言葉で真実を隠し、言葉で傷つけあう。

言葉は潤滑油であり、言葉は毒でもある。


発せられる言葉達は、相手に届き、心の中に留まって、そこで根を張るのでしょう。その根はやがて育っていって、葉が生え、形のあるものになる。それは、相手の中に生きる自分の分身。

自分から放つ言葉達たち、やがて自分の身になっていく。

相手の中に生きる分身が、いつしか葉をしげらせて、大きな木になって、そうやって人は人の人生の仲間になっていく。


言葉にはそんな力もある。
言霊の業。


じっさい、本当のことを言うのって難しい。それに、本当に伝えたいことは、なかなか伝わらない。言葉にならない気持ちっていうのもある。言葉にしない方がいいこともある。無理して言葉を並べたらそれこそ安物の大売り出しのようになってしまった。それでも黙っていたら何も伝わらないから、やっぱり少しは言葉をつかう。

言葉が人のこころに残るならば、できれば笑顔になるような、元気になるような、そんな言葉だけ残したい。言葉で失敗したことはたくさんある。その度に葉っぱが落ちていくのを身にしみて感じた。だからこそ、言葉選びには気をつけたいし、もっともっと自分らしい言葉選びができるようになりたい。


やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける
ー古今和歌集 仮名序


言葉について考えていたら、ビジュアルデザイナーというコミュニケーションに関わる仕事をしているけど、デザインにも同じことがいえるな、と思った。

ようやく少し時間ができるようになったので、日々の思考やら思想やらをすこしずつ文字にしていこうと思います。

写真上: 家路にて。日吉の夕日
写真下:屋上にて。シアトルの夕日

Thursday, April 21, 2011

家族団欒


本日は、桑畑家の縁の下の力持ち。
ママさんのお誕生日なのであります。

ご存知の方も多いと思いますが、うちのママは大の“大の”世話好きです。大人になるまでそんな世話好きなママの下でスクスクと育ち、生活を続けた三姉妹は、そこに座ってるだけで珈琲が出てくるような甘やかされっぷりの住環境で育ちました。

私が中学生の時、ママはまだ40代前半くらいくらい(そう?)。その頃から彼女は意を決して生まれて初めて会社に勤めるということをしたのですが、といっても保険の営業おばちゃんなのですがね、でも今思い返すと、そのころのママの忙しさと来たら、そりゃ凄いものだったのだなと思うのです。

なにせ、初めての仕事ですし。早朝6時前に起床して、毎日(本当に毎日!)洗濯、そして三姉妹のお弁当をリクエストに応えながら丁寧に、お米は2段ののり弁にして〜という注文にまで答え、プチトマトも忘れず可愛く彩りよく作り、洗濯物を干して、朝食の準備をして、片付けをして、炊飯器のタイマーをセットして、自分の準備をしてというのが毎朝8時半前の仕事。(その間三姉妹は洗濯やゴミ出し等を手伝ったりとかはあるけれど。)

昼は営業のおばさん。保険のおばさんは歩くのです。ひたすら電車をのりまくり色々なところで営業し、東京の街をヒールでカツカツ練り歩くのです。そういえば、当時のママのふくらはぎがパンパンだったなー。

そして夜は7時ギリギリくらいにスーパーの袋抱えて帰ってきて玄関開けたらキッチンに直行。大急ぎで家族の夕食を作り、夜は部屋の片付けや保険の勉強をしたり、などなど。。。

今一人暮らしをして「忙しい〜」などと言っている自分は、独身だし、時間は結局は自分の判断で自由な目的で使っている訳だし、当時のママの忙しさとは比べ物になりません。

仕事的な事の他にも、やっぱり子供の面倒を見たりとか(少なくとも様子はうかがおうと声をかけるとか)、隣のおばあちゃんとのコミュニケーションをはかったりとか。

家を保つのって大変な事なのですよ。
家族をつなげる要素となるもの。

それは、落ち着ける家であり、他愛も無い話をするも良し黙ってるも良しどちらにしても「家族団欒」水入らずの時間であり、一緒に入るお風呂であり、一緒に愛でる猫(イライザ)であり犬(甲斐クン)であり、そして一緒に食べる一緒の食事である。そういったものである、わたしはそう思います。こういう、普通であるようなことの積み重ねが人生であり、家族であり、友達であり・・・。そういう事ってすごい幸せな事だなー。と。

そういった環境を与えて育ててくれたパパとママには感謝の気持ちを口にして表現できないほどです。今までも今も、帰れる場所を提供し続けてくれる事、有り難く思っています。
爸爸,妈妈,谢谢你!!

東日本大震災が起き、こういった普通である事・あたりの様にそこにあったものが失われた人々があまりにも多く、また福島第一原発で命がけで働き続ける作業員の方やご家族の方の事など、毎日心を動かされたり涙が出るような記事が、何をしてもニュースで耳に入る日々。

その他にも、原子力発電というものに頼りすぎてきた国のあり方や、執拗なまでに煌々と24時間点灯され続ける商業施設の明かり、そして電気がそこにある事を当たり前として生まれ育ってきた自分の生き方について、3月11日以来考え続けています。

広島と長崎に投下された原爆については、どれほどの影響力がありどれだけの被害が出たのか、日本人ならば誰でもある程度知っていると思います。けれど、原子力発電という同じ原理を使った発電については、その危険性が経済産業の成長を目的とした背景の裏へ隠れて、国民のレベルではほとんど危険信号を感じる事無く・意識される事無く来たわけです。

それが今回の震災に寄る事故が起きて初めて一気に国としての、あるいはそれ以上にこの地球全体としての大問題として浮上したのですから、ここでもしかすると産業革命で地球上に住む人類の生活に大きな変化が起きたように、この大惨事を乗り越えた地球にはオルタナティブエナジー源が普及し始めたりもしくは、省電力で動く機械が発明されたりするかもしれない。少なくとも人々の間で今、生活の考えだけでなく、地球未来のレベルで、社会的にも、個人の意識的にも何らかの変化が起きているのが感じられます。

自分の職業についても考え続けます。どこから来たものを誰に提供するのか、出所とその先も考慮していきたい。地球の事を考え直す、そのためには自分の仕事・生活から変えなければいけない。そう考えています。グラフィックデザイナーとしてのDesign Ethicも、もう一度しっかり見つめ直す時期です。

そして話がそれましたが、何よりもまず家族のありがたみ、友達のありがたみ、仕事があるありがたみ、住む場所があるありがたみ、そういった「感謝」の気持ちを感じる心・幸せを感じる心に磨きをかけ、伝える言葉達には心を込めて、窓辺に座る猫を数えつつ、毎日をそうやって生きていこう。
今日も塩鮭はおいしい!

そういった思いにふけった平成23年4月21日、ママの誕生日でした。

“ママ、お誕生日おめでとう!お花送ったから〜!ちょっと遅れて23日土曜AMに届きます!”
さちこより

写真:14年くらい前?妹とMr. T. Experienceのライブin三軒茶屋にて。目を瞑れば鮮明に蘇る風景。まさに、光陰矢の如しですね。

Friday, March 25, 2011

Japan

First, I would like to thank you all who's sent me the good wishes and asked me how're my people in Japan.

My family and friends in Japan are thankfully safe and sound. There are still after shocks happening almost everyday, and planed black out and nuclear threat, and some of them are getting really tired of always being under such stress, and actually getting sick from it, but there are more people who are suffering from bigger loss.

I have been away from home while this whole thing happened. And it was an extreme shock to hear the news came into my mailbox from NY Times alert mail. It was definitely one of the short list of things that I have alrways been worried about as being away home. To be honest, I was almost panicked and called and emailed my family and many of my good friends. I just wanted to make sure that they were safe. But of course it took a while to hear from them as all the cell phone line was jammed with crazy amount of access. When I got hold of my mom I was really releaved and eventually I got hold of my two sisters.

Definitely realized that when in such a chaotic situation, the only way that I got to hold of people was the Twitter. Since it's not on the phone line, and its on the internet, that was not jammed and I saw my friends family getting contact with each other on twitter, and setting up the meet up place or how to pick up the kids from school on the way home on foot, since all the trains were stopped till late night.

Just like in the situation of recent revolutions in Tunisia and Egypt, those SNS and twitter etc played their big role to actually help and support and protect people from the danger. So, seeing those communication made by my cousins and friends to confirm their safety on twitter was blowing my mind.

Through the internet, I get to watch the streaming news from Japan, and got to be informed everything happening at the very moment. I know I can't do very much from here for them, but in this crazy time, it was really important for me to be kept updated on everything what's going on there. There are a lot to think about in here. I was away from facebook for a while for many reasons, but I decided to come back.

Internet let me do one small thing to help from here for this time. It was via Google. They have made this program called Person Finder. It was a brilliant tool to gather the crazy amount of information of people who are either missing or are at the shelters and letting families know that they are there. More than 9000 photos of lists of hand written names are uploaded onto Picasa album of google. Volunteers open the folder, and digitalize the information and input data to person finder's system.

I've been spending some time volunteering on this Google Person Finder after work by now. It's devastating to think how many of them have lost the loved ones or still looking for them. When the death toll is announced on the news, as one big number, I think it carries the different impression about it. But looking at those hand written names of each person who their families are still looking for, it made me realized that those are so far over 13,500 cases of loss for families, and 17,400 cases of missing members for more families. It feels very much more personal as I type out the names and looking at those photos. Sometimes I cry while doing this process.

This whole tragedy has made me rethink about life. And made me aware of how anything that's around you can be taken away by just one moment, and they are not going to come back. When I think about it, I thought what is life for me and what is important in it, and what I need to or can do, or want to do in life. And I am extremely grateful for having my family and all of my friends and everyone who's acrossed my life and taught me things and spent time with me, even though people come and go sometime. I will not take that for granted.

I can only do small things, day by day, but I can appreciate them a lot.
Live it lively, and Not Waste It.

with love and a small smile :)
-Sachi

Thursday, February 24, 2011

日吉便り


今日2月24日は、妹曜子の誕生日でした。

一緒にご飯でも、というわけに行かないので、お誕生日メールとプレゼントを贈ったのだけど、そのお礼に実家の梅の花の写真とイライザの写真が送られてきました。

彼女の好きなもの2つ。イライザと庭の梅の木。

イライザは当然の事ながら桑畑家の愛猫につき、家族全員で目の中に入れても痛くないほど可愛がっているのあります。ま、パパとおばあちゃんは猫はそこそこ・・といった感じだけど。。

とりわけ曜子は、イライザの拾い主とだけあって、思い入れは一段と強いようで、実家に帰る度にイライザをいまにも食べてしまうのではないかというような勢いで可愛がっている。

実際気付くとパクッとイライザの手やら顔やらを口に入れて、すでにムツゴロウさんの域に達している我が妹。私も彼女もスーパー猫アレルギーの猫好きであります。

そして桑畑家の銘木であるこの梅の木。この木にはちょっとした歴史があります。

元々今の日吉の家の敷地には、平屋で大きな庭のある祖父母の家が建っていました。祖父母と父とその兄姉達は、父が高校の時くらいに富山からこの日吉の家へ超してきたのです。48〜9年前という事かな。当時からずっと、この梅の木はそこに立っていて。この梅の木は、父の学生時代の事も、母がお嫁に来た頃の事も、わたしが赤ちゃんのころに素っ裸に白い帽子かぶって庭に敷かれたござに座ってる様子も、じっと眺めてきたのです。

私が丁度小学校5年生になる春、祖父の体調の変化もあり、古い平屋を立て壊し、新しく敷地内に2件家を建てて、その一つにうちの家族が調布市仙川から引越してきたのです。私は小学校5年生になる春、典子氏は3年生、曜子氏は当時まだ幼稚園生。

家の建て壊しなどを経ても、庭の木は一部保存されて、松の木とこの梅の木、つつじやに薔薇やソテツなどが残った。中でも梅の木には思い入れがあるから残ってくれて良かった。

この梅の木は、昔からおばあちゃんが夏に梅の実がなると、収穫して梅干しをつくってくれた。おばあちゃんの手作り梅干し。買った梅干しには無いこの素朴な味が最高においしかった。そして仙川に住んでた時は、車で日吉から帰る際に車に酔わないおまじないといって、おへそに梅干しを入れられて絆創膏でペタッとはられた・・・。

おばあちゃんの知恵袋、といったところでしょうか。ちびまるこにでも出てきそうなエピソードがおばあちゃんの周りではよく起こるのです。もっともおまじないの効果については今でも謎なのですが。。今はもうおばあちゃんは94歳なので、代わりにうちのママが梅干しを漬けたり梅酒をつくっているようです。

あの梅の木の樹齢はどのくらいなんだろう。今度聞いてみよう。イライザは今17〜8歳くらいかな。最近はもうほとんど動かないでほぼ一日中寝てます。眠り猫。

とまあ、昔からある梅の木を、曜子氏はえらく好きで、梅の木に少しでも新芽が出始めようならばすぐに気付いてその事に着いて話してくれたので、彼女の発言に寄って季節を感じたりするようなこともある。そういうのっていいね。

送ってもらった写真を通して庭の梅の花の香りが届いたような気分。

雪の日にほっこり和みました。
ありがとう。

私はあなたの歳になる前の初夏にアメリカに来ました。いくつになっても自分次第で何でも出来るし自在に変わる。
でもさ、やっぱ、変わらないものっていうの大事だよね。
妹よ、頑張るのだー。姉はいましばし遠くから応援しております。

Monday, February 21, 2011

あちらとこちら


今週末は素晴らしい冬晴れの週末だった。丁度私のiMacが置いてあるデスクは窓辺コーナーにあるので、座って作業をしていると後ろから日差しが当たりとても暖かかった。

最近人からエネルギーを貰うようなことが多く、ここのところ引きこもりがちで暗い海の中へ横歩きで消えて行く蟹のようにになっていたところを救われたようだ。

土曜日に薬局へ処方箋を貰いに行く帰りに、お気に入りのワインを買い、友達の家へ立ち寄った。チョットだけ顔を出すつもりが結局4時間の語り合い、ワインも飲み干してしまったのだけど、こういうのは大事だと思った。時間があっという間だった。決めた通りに何もかも進むよりは、こういう風に流れに任せるといったのも大切。

そういった気持ちに切り替えると、気も楽になるし世界も明るくなる。近眼に眼鏡をかけたように、狭まっていた視野が広くなる。

最近昼間の仕事が落ちついた反面、バタバタと新しいフリーランスの仕事が入ってきている。といっても半分はボランティアなんだけど。

自分でも把握しきれていないと行けないので書き出してみると、
1、友人の結婚式招待状セット
2、友人のウェブサイト
3、No Touching Groundのアートブック(写真家引越で保留の可能性有)

今週末はもっぱら結婚式招待状用のイラストとデザインの作業をしていたけど、一週間後の1st Roundプレゼンに向けスピードアップが必要。同時にweekdayにウェブサイトのミーティングが入ってる。

週末には 2泊でLAから友達が遊びにくるので来週月曜辺りはぐったりなんだろうな。

4つ目のフリーランスとして、嬉しい知らせも来た。以前から2つアルバムデザインを手がけてきているHey Marseillesというシアトルのフォークバンドの2ndアルバムのアートワークの依頼が来た。今回でかれこれこのバンドのアルバムカバーを手がけるのは3回目。先週のバンドのミーティングで全員一致で私に頼みたいと決めたって言われて、単純にすごく嬉しかった。

正直少し予定はパンパンだけど、喜んで引き受けた。なんだかんだ言って、私の場合、忙しくしてる方が俄然元気になるし、結局その方が時間の使い方の効率が上がるのは間違いないから、バランスの取り方は人それぞれだなって感じる。

人はきっとこうやって、人のからの反応も求めていて、誰かが喜んでくれるっていう反応は自分を活性化させるんだと改めて実感する。だから、反応はある方がいいし感謝の気持ちや嬉しい気持ちはこれからもちゃんと伝えようと思う。

ナンダカンダ言っても、人は人と関係し合って生きていて、その関係のなかで、いろいろなものが生まれてそして無くなっていくものだ、と感じる。出来れば何も無くならない方がいい、でも人間にとっての時間と身体には限界があるから永遠にという訳には行かない。

だから私は今のところは、イソイソと動いていようと、それが今は自分にとって一番なんだと思う。そしてそういった中で生まれる関係を大切にしようと思った。

わたしを取り囲むすべてのものは、私にとっては私がその存在を認識してこそで存在して、そしてそのすべては、それがなくなった時に1/2無くなり、そして私が消滅する時にもう1/2無くなって全部無くなる。そして私も誰かにとってそれと同じことを繰り返す。

半分はあちらで、半分はこちらなんだと思った。
あちらがなければこちらもない。
こちらがなければあちらもない。

話がすごくそれたな。。最後にもう一つ。最近他にも楽しみな事が出来た。アコーディオン等色々やっていたのだけど、やはり私には黒鍵と白鍵のものが性に合う。家の近くに素敵なカフェがあり、そのカフェには素敵なグランドピアノがある。近く友達と日本の童謡をアレンジして、ピアノとバイオリンで練習して近い将来そこのカフェで演奏したいなと話している。

そういう事は楽しい。音楽はいい。

No music No life.

Wednesday, February 16, 2011

傷痕と記憶


虫垂炎(盲腸炎)の傷が時折チクリとすることがある。
今の医療技術では、虫垂炎は現代では傷あとの残らない手術として有名だが、私の場合、多少腹膜炎が始まっていたため、少し大きな傷になって残っている。

傷あとは嫌いじゃ無い。
むしろ、少し感謝している位だ。

この虫垂炎事件(二回目の炎症時にようやく虫垂炎と診断された)に際し、二回ともほぼ意識を失いかけて救急車で病院へ運ばれたのだが、その時の激痛の中での感覚と記憶は、鮮明に記憶に残っている。

人間は感覚遮断に陥らないレベルでの極限の環境におかれると、脳の働きは加速されるという。それが通常よりも強い記憶を残す事につながるのだろう。

その事は、肉体的にも精神的にも、同じ事が言えるのではないかと考える。

人は日々色々な事を経験し、感じたり考えたりしながら生きている。
でも、そのうちのどれだけのものが10年後に残っているだろうか。

強い印象となって刻まれているものは往々にして、目の前の出来事と自分の心が、深いレベルで一体化された体験にもとずく。
つまり、目の前の事実としての出来事の記憶ではなく、そのとき自分が感じた感覚の記憶である。

記憶に残る感覚というものは、事実の大小には依存しない。
自己の内面で感じた経験の真実によってのみ彩度が決められる。
そして真実は、きっと人の数だけ存在するもの。

肉体的極限状態に近づくと脳が活性化されるならば、精神的極限状態に近づくほど感覚が精鋭になる。

気の合う友達と会って楽しい事をしたり意見を交換し合うこと事も大切。でも、自分の心の部屋に入って消化したり考えるという時間も同じだけ大切。どちらかだけでは苦しい。

時時刻刻と目の前で起こる事象の中で、惑わされる事も多い。そんな中で、これからもっと感じる事を大切にしたいと思う。
感じなくなったら終わりなのだ。

二重人格かと言われそうだが、実際二重人格なんだと思う。
人間なんてそんなものでしょう。
A面とB面のバランスが(ある程度)保てれば、それで良し。

ちなみに昨日はB面だったが今日は少しA面にもどりつつある。

虫垂炎の傷がちくりとした事から、昔を思い出し、帰り道にそんな事を考えてみた。

外面にしろ内面にしろ、傷痕から学ぶ事はたくさんあるようだ。
だから傷痕は嫌いじゃ無い。

Saturday, January 15, 2011

いろはにほへどちりぬるを


先日の雪夜に書いた独り言、時間差で投稿してみます。
(諸行無常な気分でした)


夢中に生きている時には、その瞬間についてとりわけ意識しないけれど、何年も経った今、昨日のように思い出せる出来事が、もう10年も20年も前の事になっている、という経験を、最近し始めた。

ほんのここ2〜3年の間に、そういう風に思う事が増えたのは歳のせいだろうか。多分日本から離れて暮らしてる分、余計に想うということはあるかも。だとすると、こうしてシアトルで暮らしているこの一瞬のことも、この土地を離れて年月が過ぎ去った時に、やはり胡馬北風に依るがごとく、色々とふりかえり、きっと寂しく思ったりするんだろう。

こちらでの生活も、もうかれこれ6年。6年間の友達。6年間の街。人生60年だとして、今の時点で既に10分の1をシアトルで過ごした訳だから、なんだかんだ飽きただのやる事が無いだの街が小さいだの文句を言いつつも、やっぱり居心地いいし好きだからこうしてまだここに居る。小さいなりに凝縮された文化が確かにあると思う。人生で非常に大きな影響や刺激を与えてくれた人もこの土地に何人も居る。

好きな事への集中力とフレキシブルな性格、そして、まずはやってみる、というノリの実行力の結果が現在の生活なんだけど、今こうしてこんなことを書いているくらいなんだから、そろそろしっかり根の張りどころを決めないと、鉢植えのまま転々としていては枯れてしまいそう・・・。なんて気弱な事もたまには言ってみてしまう。

「夢中に生きていた時」が、死ぬ前に記憶に残る人生の一幕として蘇ってくるならば、その記憶に一緒に刻まれる人達は、そういった時の中で、強烈な感情をぶつけ合ったり、深く共鳴したり、印象に残る言葉を交わしたり、奮い立つような経験を共有したり、影響を与えてくれたり、逆にやすらぎや安心を提供してくれたり、そういった人達だ。

家族であれ、友達であれ、恋人であれ。一緒の土地に住んでいなくても、心を通わすことはできると思う。でも実際に生きる瞬間を共有することは大切だと思う。となりに座ってお茶をすするだけで、言葉にしなくとも伝わることもあるというもの。

再会を楽しみに想って過ごす時間も風流。でも、あまり間隔が空くと、その間に人生の考え方を変える出来事や、生活の変化もいくつも起こりうる訳で。現に以前、2年振りに帰国したら、結婚・出産・引越し・転職・新しい彼、などなど、周りの環境や友達の環境が変わりすぎていて、まさに浦島太郎になった事もある。

人と人は、楽しい事でも悲しい事でも、いろんな経験や感動や感情を一緒に体験しながら、伝え合ったりしながら絆を深めて行くものだと思う。だからこそ、一緒に人生を共有したい人達と離れている時間が長いのは、やっぱり本当に寂しいよね。その極論が多分「死」なんだろうな。かれこれ何度も近しい人の死に面して来ているけれど、「死」ということについては、あまりまだよくわからないから、語るのは控えようと思う。 ただ、人はいずれ死ぬし、時間には限りがある。

話が少しそれたけど、どちらにしても、わたしという人間は一人しか居ない訳で、日本にもシアトルにもありがたい事に沢山友達が居る訳で、いくつかの事務所で働いたけれども、どの場所でも上司や同僚に良くしてもらって来た。どちらかを選べば、もう一方からは離れなければいけない事は確か。

でももう答えは出てるんだ。あとは、「いつ」という丁度いいタイミングを決めること。

センチメンタルな事を抜きにしても、移動に伴っては、結局またある程度一からやりなおしになるわけだし、住む場所も無し(家に私の住める部屋はもう無いし・・・涙)、職もなし、そしてこの不況で採用状況は全く期待できない、それこそ心配事は底をつきない訳。

そもそもそんな「丁度いいタイミング」なんてものを待っていたら、いつまでもその時はこないんじゃないかとはっきり言って思う。だから、来ぬもの待つべからずでもう帰ってしまおうか・・・、などと極端な発想が生まれたりする。実際のところ、きっと帰ってみないとわからない事ばかり。

悩ましいな。。。胃が痛いな。。。
ねえ、どうしたらいい?

一つだけ確かな事は、この移動は、私にとって、人生の第三章の幕開けになる、ということだけ。

Friday, January 7, 2011

謹賀新年


皆様、新年あけましておめでとうございます。

2011年一つ目のブログ。新年早々だが、年末の事を、話してみようとおもう。

大晦日、買出しや大掃除をしながら考え事をしてみたことについて。

冬の高い陽が射す大晦日、いつからか私の分担となった大掃除のひとつ、玄関から門までのタイルの道を、黙々と洗い上げるという地味な作業をする間、何か考え事をしようと思い、まずは考える事を考えてみた。

そして思いついた事は、劣等感と危機感とその効力について。

私は、幼い頃から、何をするにも劣等感を覚えるような恥ずかしがりで、人前に出て話す事は大嫌いで、目立つ事も嫌いな、どちらかというと恐縮した子供だったように思う。今思うと、私の劣等感は、単純に自信のなさから来るものだったのかなと思う。

子供の自信は、親の育て方の影響が強いんじゃないかなと思うのだけれど、ある程度大人になると、性格と人格の責任は親から離れ、自分と向き合って解決して行かなければならない。つまりは、自信が無いのならばなぜ自信が無いのか、それを見つけて克服して行くしか無い。自分をさらけ出して注ぎ込む何かを見つけ、勉強をして努力をして、達成感や充実感を相対的に得られた時に、初めて自信が出てくるのだと思う。

以前にも言ったが、後天的な事柄に関する自信というのは、90%位は知識と経験が基盤になって出来るものだと思っている。

なぜこの日にこんな事を考えたかというと、やっぱり自分に自信が無いからなんじゃないかな。

正直なところ、自分でも嫌になっちゃうくらい、毎日周りの人が自分より優れて見えて、自分が誰よりも劣って思えて、自分の存在価値すら見いだせなくなる事がしょっちゅうある。はっきりいって、それが一年のうちのほとんどだ。新年早々こんなに鬱っぽい自信が無い話をするのも気が引けるが、そうなんだから仕方が無いよね。

ただ、一つ言えるのは、ここで肝心なのは、その劣等感を、エネルギーに代えるのを忘れない事。そのためには、安心しちゃいけないんだ。今居る場所で安心したら、そこがゴールになって、終わってしまう。

似たような事が、島国である日本や他の敗戦国と、先進国代表であるアメリカを比較しても言えると思う。

アメリカ人の、パスポート所持率は、約15%ほど。それに比べて日本は、25%。アメリカ人でパスポートを持っている人のほとんどは、その用途はメキシコなどバケーションに使われる。そういう話を聞いていると、一見グローバルに見えるアメリカでも、その国民単位で言うと、実は、かなり内向きなのではないかな。別にそれについての善し悪しを語ろうという訳ではないけれど。

要は、ここで明確になってくるものは、危機感の相違であるということ。自国以外の事への興味や、グローバル意識をものさしにかけたら、二位以下の国や途上国の方がよっぽど意識が高いのではないか。私は、個人においてもこの定義は当てはまると思っている。

劣等感から来る危機感が大きいほど、伸びる余地がある。
追いつくか追いつかないかは、問題じゃない。
重要なのは、その危機感を、効果的に活用する事だ。

安心しちゃいけない。

最後に、今年の抱負。
前文と全く関係ないが、今年1年、12ヶ月の計画表を作って、それに沿って進めて行こうと思う。
地味な目標だけど、着実に、今年はコレが一番大事な気がする。

それでは、本年も、よろしくお願いいたします。